昭和48年03月04日 特別奉修委員
皆さんが御祈念、そして御理解を頂いて、皆さんの御届けが済んでしもうてから、またこうやって特別御祈念を一週間にいっぺんずつでも御用なさる。特別奉修委員の名においての、私を中心とした教会の事、様々な事いうならば自分以外の事をこうして願われるという事、とても有難い事だと思うし、私はあの、これこそたっぷりと信心の稽古をする時間を頂いておられるんだと思うですね。だからあのならたっぷり信心の時間をかけると言う事は、あの時間をかけさえすればよいとか。
一生懸命参る度数を多くすればよいと言う事じゃないですね。だから例えばならこうやって特別報酬委員のこうやって御用、あの特別の信心をなさるのに、気がせかせかしたり、イライラしておったらもうそりゃたっぷりの徳には絶対ならんとですよ。早うしまえりゃよかばってん、早うばたばた早うこげん忙しかつにゆっくり、あのお届けをしてからっち、そげなんもんはそちらでその、せからしい気持ちが起こった時にはもうそりゃもうたっぷりの中に入っとらんとです。
たっぷりと言う事はゆったりと言う事もある、中には。ですからあの、そこんところをひとつ分からせて頂かにゃいかん。そして一つお互い、本当にもうたっぷり信心の時間、稽古のできれる時間を頂いて、本当に成程、たっぷりとしたおかげの頂けれる、おかげの中に住まわせて頂けれる実をあげていきなさらなきゃならん。そんな事を私、只今御礼申させてもらいよりましたらね、さんずいへんに也という字を離らかしてさんずいを頂いた。池という字になりますよね、さんずいに也、一円也のなりです。
と言う事は、今私が申します、信心の時間をたっぷりかけるという事はね、どう言う事かというと、もう自然の中にたっぷりとでなからなきゃいかん。でなかったら楽しいものやら有難いものは生まれてこないです。時間さえかけりゃよかというのじゃなくてね、この特別奉修委員の中に入りさえすりゃよかじゃなくてから、早よばたばたして御祈念しなさりゃよかとこに、いつまぁでん誰かお届けしてから、という時にはもうそれはたっぷりじゃないわけですね。
そういう例えば、なら誰かがここでもゆっくりしなさるですよね、本当ゆっくりとお届けをしなさる悠長な人があるです。それをなら後ろからイライラしとったらもうたっぷりにはならないとです。楽しい事にはならんとです。例えば五分でも十分でも御広前にこうやっておられる事が楽しかったり、有難かったらという内容でなからなきゃならないと言う事ですよね。いわゆる自然さんずいと言う事は自然、だから自然の事その事自体をね、楽しゅう有難うならなければ、時間をたっぷりかけたと言う事にならんです。
也と言う事はもうこれに極まったと言う事でしょうし、これを合わせると池と言う事になる。池と言う事はたくさんのお恵みの水をたっぷり与えるところなんですから。今という(?)はさんずいに也という字を頂いた。ははあ、信心の時間をたっぷりかけるという事はそう言う事なんだ。してみると私達の場合が本当にあの、神様の御用にたっぷり使わせていただいて、信者時代に使わせて頂いたが、それが有り難うして楽しゅうてというのじゃったから。
なるほどたっぷりおかげの頂けれる元というものがそのような時にできておったんだと思いますね。今どうぞこのさんずいへんに也という字をしっかり思うてみて下さい。さあ、今日は特別奉修委員で、もう、いわば朝の4時も5時もからみなさんみえておる方もたくさんおられましょう。それでいてみんなが終わってしまうまで、そして最後になってゆっくりゆっくり悠長にお届けして、もう早うばたばたしなさりゃよかとにと言うたら、もうそれは、その、たっぷりという事にはならない。
ここら辺のところの味わいを頂きたいですね、信心は。そこんところのおかげを頂かせて、イライラせかせかしたんではいくらんなら時間をかけても、もうそりゃたっぷりという事にはならないと。本当に、信心は楽しゅうさせてもらう。しかもその時間がたっぷりとかけられるというおかげを、というてここでですね。なら悠長に悠長にお届けをしなさるとを私はよかというとじゃないですよ。
例えば一人でもそういう人があんなら、今日はたっぷり信心の時間を取ろうかと思いよるところへもってきて、あぁまぁ何か知らんけれどもぐだぐだぐだぐだお届けをしよんなら、と一人の人がそれを思うたとするともうその人にこりを積ました事になるからね。お届けはもうそげん何べんでん聞かんでん、もう、おかげを頂く・・・
(途中切れ)